私は妖怪や幽霊を見たことがない。
もちろん会ったこともない。
当然、話しかけられたこともない、
後ろにいたと言うこともないし
(これは気づかなかっただけかもしれない)
追いかけられた事もない。
だが私は、
いわゆる「霊感」というものを兼ね備えた人にけっこう逢ってきた。
たとえば、高校時代。
実業団でお世話になったNさんだ。
よく、「歩いているのを見る」とか
「そこにいる」とか
「障子の後ろから出てくる」とか
「壁にへばりついている」
と言っていた。
と、ここまで書いて部屋を一段明るくした。
部屋は普段パソコンと山善のスタンドの光だけの事が多い。
さすがにちょっと怖くなった。
で、大学時代にはアパートの真上の階に住んでたG君だ。
なんかそのアパート自体がかなりやばかったらしい。
どうやばかったかは、あえてここではふれない。
間違ってもやばいくらいきれいというわけではない。
G君も「なんかいる」とよくいっていた。
たまたまそのG君より霊感の強い友達が遊びに来ていて
G君の部屋でお酒を飲んでいたとき、
「怖いから帰りたい」と言いだしたそうだ。
その時G君もこんな部屋をすぐに引き払って
すぐにでも実家に帰りたくなったに違いない。
G君の実家は東京だった。
そう思えば、通える距離である。
ちなみに私はそのアパートで大学4年間を謳歌させてもらったが
その手のものには、一度も出会わなかった。
やはり日頃の行いが良いのだろう。
働き出してからは、Uさんだ。
このお方も「よく見る」らしい。
実際よく見そうな顔つきをしている。
何を見るのかは具体的には聞いていない。
だがここでよく考えて欲しい。
実は私の住んでいる「熊野」とは、
妖怪や幽霊の「宝庫」なのだ。
「たまり場」といってもいい。
妖怪の「居酒屋」と言ってもいいかもしれない。
みな、「癒し」とか「神秘」とかそういう生易しい言葉で表現しがちだ。
まあ「神秘」という言葉の意味は、
「人間の知恵では計り知れない不思議なこと。普通の認識や理論を超えたこと」(大辞泉参照)
という意味である。
あながち間違ってはいない。
私が勝手に師と仰ぐ、
南方熊楠大先生も
ここ熊野で妖怪を追いかけ回していたのである。
「追いかけ回す」と言うことは、
「見えていた」ということである。
私の場合、見えていないので追いかけ回せない。
第一、追いかけ回したくもない。
これから熊野古道を歩こうと思っている人は、よく注意して歩いてほしい。
古道の途中には風が抜けない、無風な場所がスポット的に存在する。
地形によって生まれる、いわゆる「風通しの悪い場所」というやつだ。
そういう場所は、だいたいたまり場になっている。
何のたまり場かって?
もちろん、「妖怪」のたまり場だ。
だが臆することはない、一緒に休憩してもノープロブレムだ。
間違っても、ゴミを捨てるなんて事はしないでほしい。
ちなみに南方熊楠大先生について
手っ取り早く知りたいなら一つの本を紹介する。
水木しげる先生の「猫楠」という本だ。
(漫画だけど…ついでにR15指定)
熊楠先生について書いた本は何冊か読んだが
(現実には何冊か読みかけのままになっている)
一番これがわかりやすくて面白かった。
まあ漫画だからというのもあるかもしれない。
(いや確実にある)
先生は今、高山寺に眠っている。
左の写真は先生の墓所ではない。
墓所は別な場所にある。
この写真は寺の目印。
いわゆる看板だ。
ちなみにこの写真には妖怪は写っていない。
写っているは「私」である。
そのあたり、お間違えのないように。