その後この王子は熊野詣の中でも重要な社とされ、正治二年(1200)十二月には、後鳥羽上皇が歌会を催しており、この時の「熊野懐紙」が残っています。
平治の乱が起こったときには参詣途中の平清盛が、この王子から都に引き返し、元引の乱には、大塔宮がここで熊野権現のお告げを受け、十津川へ落ち延びるなどいろいろなエピソードが残されています。